小山小学校は、幾たびかくりかえされた市川(百々川)の氾濫により形成された百々川扇状地の扇頂部分に位置し、名勝臥竜山のふもとに建設された。小山地 籍は、湧水もあり、臥竜山が、自然の堤防の役目を果たしたので、古来よりの集落地であった。南原の上で取水し、小山・屋部・八幡・境沢を通過し高梨方面に
流れ下る用水路は、人々の重要な飲料水、田の用水となっていた。昔の小山村は、この堰水を共にする村々の集合体であった。明治初期は、小山村、坂田村、大
日向村、灰野村と市川沿いの四箇村との結び付きが強く、小山村は、南原、穀町、北原、屋部、八幡、境沢、高梨の一部を含む大村であった。
徳川時代、坂田村・小山村は、須坂藩に所属し交通路とし
て、北国街道、千曲川沿いの谷街道、江戸への裏街道としての大笹街道に近く、外部との交渉が盛んに行われ、住民の教育への意識も強かった。江戸末期頃か
ら、寺子屋や私塾が増加した。この普及と教育に対する願いが、明治六年小山小学校の前身となる「止善学校」開設へとつながる原動力となっていくのである。
幾多の変遷を経ていく中で多くの新しい教育実践が行われた。 止善文庫は、大正元年12月351冊の蔵書と経費40円をもって発足した。
その対象者は、青年子女であり、閲覧・貸出を行い多くの利用者があった。大正15年、止善文庫と他の本を合わせ、須坂町の図書館として開館。現在の須坂市立図書館の前身となっている。
1879年明治12年1月14日郡区町村編制法に基づき、長野県高井郡を上高井郡と下高井郡に分割した事で発足。郡役所は須坂町に置かれた。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、上高井郡に須坂町と14の村が成立する。(1町14村)
1892年(明治25年)1月29日 - 小山村が豊丘村に改称。
1922年(大正11年)7月1日 - 豊丘村小山・坂田地区が須坂町に合併。
詳しくは、Wikipedia上高井を参照。